伊勢で詠んだ二十の発句の鑑賞の為に!
(三)松尾芭蕉と伊勢山田奉行

何故、松尾芭蕉の「一の鳥居での禁足」が起こったのでしょうか?その謎を解く鍵は伊勢山田奉行所の記録にあります。橋本石洲著「伊勢山田奉行沿革史」によれば江戸幕府はキリシタン根絶やしの為、「宗門改め」を制定しました。幕府直轄領神都伊勢も例外でなく、祭主家と神宮家以外は原則として、それぞれの寺院で十五歳以上の名前帳を作り、寺僧の証明を奥書して伊勢山田奉行所に提出しました。十七世紀中頃神都伊勢、宇治には57ヶ寺、山田には371ヶ寺ありましたが寛文十年十一月廿四日山田上中之郷鉈(なた)屋世古よる失火類焼家屋五千七百四十三軒寺院は百八十九宇土蔵千七百七十七所死者四十九人当時山田の戸数が九千七百六十八軒半数が焼失しました。

 
 「寛文十年十一月廿四日神都伊勢山田の大火」を記録した山田奉行所記録控
「橋本石洲著 伊勢山田奉行沿革史」

伊勢山田奉行桑山丹後守貞政は幕府から難民救済として金一万両を手配しましたが、一方内宮側では、芭蕉が参宮に赴いた貞享元年の三年前、天和元年に内宮御正殿が炎上する、前代未聞の大不祥事が起こっていました。伊勢山田奉行第十代桑山丹後守貞政は神領に寺院は相応しからずと、寛文の大火後、寺院の再建を厳しく規制し(将軍家秀忠の息女千姫の菩提寺建立は特別)両宮長官に対し僧尼法体の者、他国参宮人にも念を入れて、指南すべき旨を申し渡されています。
神宮年表には、「天和三年山田奉行令シテ外宮僧尼拝所ヲ正宮御前ニ移サシム。」とあります。此の奉行記録に依り、松尾芭蕉は、それ迄「貞享元年まで」三度のお伊勢参りの折には難なく内玉垣御門(玉串御門)前まで入って参拝できました。しかし、四度目の貞享元年、八月末頃は、桑山丹後守貞政奉行により「僧尼法体の者、他国参宮人」に念を入れ、両宮長官に申し渡されていた事が解ります。
従来の「西行法師以降約400年間、同じ所に僧尼拝所があった。」とする解説は間違いであり、松尾芭蕉は「僧尼拝所さえも知らない予の無知によるドタバタ劇。」と酷評する地元国立大教授の論評は見当違いである事が解ります。


 
松尾芭蕉が「神風」を直感した伊勢神宮外宮 「五百枝杉」

野ざらし紀行の伊勢参宮の詞書は「神都伊勢の枕詞」である‘’神風‘’
(三十日月 なし千年(ちとせ)の杉を 抱く嵐(あらし))
を体感できたのは、一の鳥居で禁足された内宮ではなくて、その足で夕方参拝に出かけた‘’外宮神域‘’ですよ!と、厳しい言葉を連ねた詞書の断り書きで解ります。
神垣や 思いもかけず 涅槃像 
の解釈も以上の経緯に依り変わって来ます。



  伊勢参宮名所図会
松尾芭蕉は、貞享元年八月下旬第四回目までは、一般庶民同様絵に描かれている如く、玉串御門前での参拝が難なく出来ましたが四回目の参拝では五十鈴川を隔てた僧尼拝所で参拝する様促され、野ざらし紀行の厳しい前詞となった。

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