伊勢で詠んだ二十の発句の鑑賞の為に!
(2)松尾芭蕉と外宮御師


宮川の渡し(二本差しの侍が御師の手代)
「伊勢参宮名所図会」

弥次郎兵衛と喜多八が宮川の渡しを超え、外宮の門前町山田に入ろうとした所で、御師(羽織り袴の二本差し)の手代にといかけられます。手代「イヤ太夫はどれへ」弥次「太夫は、竹本義太夫殿さ、手代「ハア義太夫と申すは、どこもとじゃいな」弥次「その義太夫といふはな、大阪にては道頓堀、北八「京は四条、お江戸はふきや町かしにおいて、永らく御評判にあずかりましたる。との掛け合いで、太夫が御師を意味する事が解らず大恥をかく場面があります。「御師」は五位の位階の者が多く、中国風に言えば「太夫」と呼ばれました。
御師の由来を探求すると、正に、伊勢神宮が他の神社とは全く異なる事が解ってきます。 律令が厳守されていた時代、伊勢神宮では私幣の禁断が遵守されており皇后、皇太后、太皇太后の三后や皇太子であっても、臨時に天皇に奏聞して許しが必要で、もし欺事をもって幣帛を進めた場合は流罪の重罰が課せられました。
神宮で正規禰宜によって幣帛をささげ、ご祈祷することは以上のように厳罰でありましたが正員禰宜以外の権禰宜が権禰宜の邸宅で行うご祈祷はあくまで「私的な祈祷」に類することとしてお咎めはありませんでした。御師の活動として有名なのは源頼朝が鎌倉幕府を開設した折、外宮の権禰宜度会光親に「公私のご祈祷」を依頼して師壇関係が発生しました。このように正規禰宜以外の権禰宜等と師檀関係を結びご祈祷を依頼したのが、御師と呼称されたのでした。
野ざらし紀行で「松葉風瀑が伊勢にありけるを、尋ね音信(おとず)れて、十日計(ばかり)足をとゞむ。」とありますが、この松葉風瀑は伊勢神宮外宮の御師です。笈の小文に登場する龍尚舎や網代民部雪堂、笈日記にある路草亭の久保倉右近、元禄二年遷宮を拝した際訪れ又(ゆう)玄(げん)こと御巫権(みかなぎごん)太夫(だゆう)清集も外宮の御師です。
御師と一口に云っても禁裏御師、将軍家御師から一般農民庶民の御師と階級がありました。神都伊勢宇治山田は幕府から山田三方や宇治会合による自冶が認められていましたが次の如く身分社会が形成されていました。
一、祭主家。大宮司家。京官であり位階は正二位を極官 享徳二年以来大中臣姓河辺則長家の世襲
二 神宮家 両宮に奉仕する正員禰宜家と同重代権禰宜家を言う。内宮の荒木田神主、外宮の度会神主を称される。
三 宇治会合年寄(宇治六郷年寄)
山田三方会合年寄
幕末の頃宇治の三十三家山田の二十家がありいづれも無報酬の所謂名誉職、宮中に職掌や定員の無い地下の権禰宜の者や正六位以上の者もあり公卿、大名、の師職家であった。(例足代民部家)
四 町年寄師職家
地下の権禰宜や宮中に奉仕する正六位以上で本姓の源、橘、藤原を称する武家出身の祠官達や無位無官の者、稀には羽書取締役と謂う商家兼帯の者もあった。山田の各町の年寄職で三方に属す。
五 平師職
平人にして師職家たるを謂う。商家兼帯の者もあったが、他業を交えない者に限り山田奉行は宇治年寄、山田三方の請により双刀を帯する事を許した。
六 殿原とのはら
宇治、山田年寄師職家の支配下に属し、神宮家、師職家の家来、あるいは代官又は手代。平時は丸腰であるが主家名代の時に限って帯刀が許される。
七 中間 苗字なき農民、庶民。
松尾芭蕉は、「野ざらし紀行」で、貞享元年、八月末頃、松葉風瀑を訪ねた折り、伊勢神宮・内宮一の鳥居で「僧尼法体の者、他国参宮人」として、禁足されました。坂十仏の伊勢太神宮参詣記の外宮の条に〔出家の輩は五百枝杉と申す霊木までまうで、宮中へはまいらず〕又内宮の条には〔二の鳥居の内まで参りて拝するに、山下松くらくして百枝の梢はいづれともわきまへ難く、宮中の杉いよやかにして千木の片そぎも定かに拝まれ給はず云々。宮中には参らず風宮へ参りぬ。〕と記してあります。江戸時代に至り、伊勢山田奉行第九代八木但馬守宗直(俳諧が得意で西山宗因とも親交があった。)の頃までは、参拝のいでたちは至って自由で、両宮七度参りには「異形の扮装」で参拝する風俗さえ発生しています。

 「異形の扮装」
 室町時代より神社の祭礼の折などに飾り物を着て練り歩く仮装が盛んになった。
  祭礼草紙(前田育徳会所蔵)

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