後醍醐天皇像 (清浄光寺蔵)


「斎宮」様とは

律令の施行細則である「延喜式巻五(神祇五)」が「天皇は即位と同時に未だ(とつ)かざる内親王(ひめ・みこ)卜して伊勢大神宮の斎王(斎宮)として定めよ。」と厳命しています。

天武天皇の大来内親王から後醍醐天皇の祥子内親王まで約650年間、正式記録では67人の内親王が斎宮様として伊勢大神宮に御奉仕されました。

歴史学者や教科書は何一つ「斎宮」様について究めず、語らず、知らせようとはしませんでしたが古代中世王朝を支えた両輪の一つである事は疑う余地はありません。

此の延喜式巻五の「斎宮(いつきのみや)(いつきの)(みこ)」の記述はいやしくも律令国家最高君主に対し、皇女を「簡内親王未嫁之」と厳命しており、天皇の権威に勝るとも劣らぬ宗教的絶対者が存在していた事を裏付けています。(天照大神を祭る伊勢神宮

此の事実は中国大陸で三世紀に編纂された「魏書」の「東夷伝」にある「卑彌呼(ヒミコ)」の記述「乃共立女子王、名曰卑彌呼事鬼道能惑衆、年己長大、無夫?有男弟佐治国」を想起させるのではないでしょうか。

即ち、卑彌呼が行っていた「祭政一致」を大和朝廷は「斎宮・斎王の制度」として引継ぎ、延々と中世南北朝後醍醐帝まで存続したと云う見方もなりたつのでは?『古代斎宮・斎王』の伝承を伝える中世外宮神官度会(わたらい)氏が著した「五部書」の「倭姫命世記」が現代に伝える唯一の手懸りになるのではないでしょうか。

天照大神伊勢御鎮座の御杖(みつえ)(しろ)として伊勢神宮最初の斎宮(やまと)(ひめの)(みこと)は景行四〇(110年)10月、東征の為神宮に立ち寄った日本武尊(やまとたけるのみこと)に‘草薙(くさなぎ)(のつるぎ)’を授けました。

草薙(くさなぎの)(つるぎ)」とは

御神宝 「須賀利御太刀( すがりのたち )」神宮徴古館蔵

草薙(くさなぎの)(つるぎ)」は日本書紀一書に「本名天叢雲剣、蓋大?所居之上、常有雲気。故以名歟」という記録以来、「鍛冶-霊剣-水霊-雷蛇-風雨神」を想起させます

又旧事本紀所伝饒速日命供奉三十二神将の中に天牟良雲命(度会神主家の祖)の名が見えますが伊勢神宮の新起源説を唱える岡田精司博士は「度会氏が天牟良雲命を始祖」としている事に就いて「この名は信仰の対象としても、また説話の中にも全ったく現れず、只系譜の上だけの存在。」とされています。

伊勢国の尾張国と接する北勢で産出された‘砂鉄’は良質で知られ、多度山には一つ目竜-(いち)目連(もくれん)の神とも称せられる天目一神が祭られていました。伊勢湾を航行する舟人にとっての目標山であるとともに天目一箇神が鍛冶技術の祖神として崇敬されていたことから鍛冶集団の存在が覗えます。(神剣考・高橋正秀)

神宮神域の高倉山山頂には天岩戸古墳があります。天岩戸古墳は石舞台古墳に匹敵する山頂に築かれた巨石古墳です。江戸時代は、参詣人が必ず見物しましたが現在は許可制になって立ち入り禁止になっています。この古墳の築造年代6世紀後半~7世紀前半には標高115メートルの頂上に巨石古墳を造れるだけの度会氏の実力の程が覗えます。何故、軍事的最高権威を象徴する「草薙(くさなぎの)(つるぎ)」が帝である景行天皇が所持せず伊勢神宮の斎宮であった倭姫命が所持されていたのでしょうか?



卑弥呼想像図 安田靭彦画 滋賀県立近代美術館蔵

何故、(やまと)(ひめの)(みこと)は「草薙剣」を景行天皇に授与せず「日本武尊(やまとたけるのみこと)」に授与したのでしょうか?「草薙(くさなぎの)(つるぎ)」-軍事的最高権威の象徴-の付与から考察すると「倭国」の統治権は天皇ではなく伊勢神宮に仕える斎宮・斎王にあり「卑弥呼(ひみこ)」を想起させるシャーマン的統治ではなかったかとの見方も出来ます

明治政府は先進諸国の文化を摂取等で数多くの功績をあげてきました。しかし宗教面では国家権力を以って廃仏毀釈や何千年と守り続けた伊勢神宮の神官達を放逐させ「国家神道」と称して以前の神宮とは似ても似らざる神宮に仕立ててしまった事は暴挙と云う他ありません(荒木田氏美「神廷秘録」)。誰にも強制されない神宮、江戸時代の神宮こそ民衆の願う姿なのではないでしょうか。


安藤広重 「伊勢参宮 宮川の渡し」 神奈川県立歴史博物館所蔵 


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